旅・エッセイ

南米からの手紙〜La carta desde Sudamérica〜 スペイン語圏の国々との不思議な縁

自分の人生、自分自身で選んで歩んでいるようで、実は遥か昔からの何かの縁で導かれているのかもしれない。
そんな不思議な感覚を持ったことはありませんか?

私はスペイン語に端を発しスペインに住んでいる今の自分が、そしてこれからの自分が、何かに導かれているように思えます。

そんな思いを書こうと思ったきっかけは、先日、ある方のツイートで見かけたビーツの写真。
コロナ禍の長く苦しい状況を乗り越え、旦那様の音楽公演とそのマネージメントでロシアへ遠征されていました。

ビーツはフダンソウの根菜。
「食べる輸血」と言われるほど栄養が豊富で、食物繊維も豊富に含まれます。
その鮮やかな赤い色がとても美しく、ロシアではよくボルシチなどに使われます。

その写真を見た夜、奇遇にも故郷長崎にあるロシアレストランで食事した写真が出てきました。もちろんボルシチも。
それは、父の従姉妹であり、南米から訪ねて来られたユミコさんと出かけた時のもの。

私にとって「ビーツ」の宝石のような鮮やかな赤い色は、ユミコさんとの想い出、そして私とスペイン語圏の国々との奇妙な縁を想起させるものなのです。

そして、私の知らない祖母、海を渡った祖母の妹の恋物語。
実家に定期的に届いていたスペイン語の手紙、里帰りした着物。
そんなことを少し綴ろうと思います。

実家で見つけた スペイン語 の手紙

私は大学時代にスペイン語を勉強しました。
一度スペインを訪れて以来すっかり勉強するのが楽しくなり、私なりに充実した学生らしい大学生活を送ったと思います。

大学を卒業し長い年数が経ったある日、実家でスペイン語の手紙を見つけました。
宛名は我が父。送り主の住所は…ウルグアイ!

ウルグアイ??
父さんはスペイン語なんて全く分からないのに何故??

驚いている私以上に、スラスラ読んでる私の姿を見て父は驚きを隠せませんでした。

「ナナ、お前読めるのか。」

「読めるよ、スペイン語一生懸命勉強してたじゃない」

父は、書かれている言語がスペイン語で、それを自分の娘が理解できるなんて考えてもいなかった!笑

その手紙をきっかけに、はじめて自分の親戚が南米に住んでいることを知ったのです。

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それははるか昔にさかのぼります。

父方の祖母の妹、つまり父の叔母であるアヤ叔母様は、その時代の女性としては珍しく美術を勉強した方でした。

アヤ叔母様は、長崎である若者と恋に落ちました。

その若者は日本人ですが、南米に移住した日系移民の息子さん。
日本の大学に留学生として来ていた優秀な方でした。

2人はその後結婚し、南米に渡ります。

当時は庶民が気軽に海外旅行なんてできる時代ではない。
しかも欧米ではなく、情報が少ない南米への移住。

アヤ叔母様は相当勇気のある方だったと思います。

その後2人の娘をさずかりました。

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南米から私の父の元に時々届いていたスペイン語の手紙は、アヤ叔母様の娘、つまり父の従姉妹であるユミコさんからだったのです。

その手紙をきっかけに、それまでアナログだったやりとりから進化(?)して、ユミコさんと私のメールのやり取りが始まりました。
ユミコさんは日本語は話せませすが、日本語の読み書きが苦手だったのです。

ユミコさんだけでなく、ユミコさんの妹さんご家族ともスペイン語・ポルトガル語・英語のごっちゃ混ぜでやりとり。

私の母は英語は話せますが、何にしろメールやネットでのやりとりは苦手。

もちろん大事なことは両親とユミコさんが日本語で電話で話しますが、私も適度に間に立つことで事がスムーズに進むならそれも良し。
その頃は私は実家を出てひとり暮らしをしていたのですが、両親とのやりとりも増え、なかなか楽しい立ち位置でした。

手紙をスペイン語で書かれても父は読めないのに、うちの父はそのことには言及しなかったんですね…。
いわく、時々電話で(日本語で)話していたから良いのだとか。
父は細かいところと大雑把なところが極端すぎる人なのです(笑)

ベネズエラから叔母がやってきた!

そんなやりとりをするようになって数年経ったある年、なんとユミコさん(父の従姉妹)が南米ベネズエラからやってきました!
(ウルグアイからベネズエラへ移った経緯は聞きそびれました)

ユミコさんが私達を訪ねてきたのは2015年。
2014年以降ベネズエラのインフラが始まり、急激な経済危機と治安の悪化に市民生活が脅かされるようになった頃です。
現在ベネズエラは危機的経済状況にあり、国の機能は破綻していると言っても過言はありません。

そんな中、ユミコさんはアヤ叔母様の「原爆手帳」の様々な手続きのために来日したのです。
詳細は割愛しますが、アヤ叔母様は原爆が投下された時、長崎市の原爆落下中心地の近くにいて被爆したのです。

ユミコさんの来日時、私は他県に住んでいましたが、週末は出来るだけ実家に戻り、様々な手続きの援助をすることにしました。
先述の通り、南米で生まれ育ったユミコさんは日本語での日常会話に問題はないものの、読み書き、特に重要な書類のやり取りには自信がなかったからです。

そうした様々な書類手続きの援助のお礼に、とおご馳走してくれたのがロシア料理でした。

ユミコさんと訪れたロシアレストラン「ハルビン」は歴史のあるレストランで、小さい頃から両親が時々連れていってくれました。
幼い頃のハルビンの想い出は重厚なロシアンレストラン、その後息子さんが引継ぎ、本格的な味はそのままに気軽に足を運べる場所と価格設定で人気のレストランでした。
残念ながら2020年3月に閉店したそうです。本当に惜しい…。

ボルシチの鮮やかな赤い色は何の色かしら?と私たちが珍しがっていると、オーナーシェフがビーツをわざわざ持ってきてくださって、ボルシチが冷めないか心配になるほどの熱心さで説明してくれました。
それがこの写真です。

スペイン語 ビーツ

大事な書類手続きがひとまず一段落して、ユミコさんも安心したよう。
美味しい料理を前に話が弾みました。

季節は春。一緒に観光をしたり、花見をしたり。

しかしユミコさんは原爆資料館にだけは足を踏み入れませんでした。
小さい頃から、原爆の辛い想い出を聞いて育ったユミコさんにとっては、あまりにも現実味を帯びた重い重い場所だったからです。

南米から里帰りした着物

ユミコさんがベネズエラから持ってきてくれたものの中には、着物がありました。

それは、父が小さい頃に早逝した私の祖母の着物。

アヤ叔母様が南米に移住する時に持たせてくれたものだそうです。

祖母は若くして亡くなったので、着物は第二次世界大戦前後のものです。

半世紀以上の時を経たとは、また大陸を往復したとは思えないほど、綺麗な状態でした。

時には干して南米の風を通し、湿気や虫にも気を使い…
どれだけ大事に手入れしてくださっていたのかがよく分かります。

これもだいぶ後で知ったのですが、幼い私の父を残して祖母が亡くなった後、祖父は祖母の妹であるアヤ叔母様と再婚することも考えたのだそうです。
祖父とアヤ叔母様が結婚していたら、この着物が海を渡り、そしてまた日本へ里帰りすることもなかった。

人生って分からないものですね。

スペイン語 着物

ユミコさんが来日した翌年、アヤ叔母様はベネズエラで亡くなりました。

数年後ユミコさんは再来日し、アヤ叔母様の遺骨を故郷の海に散骨されました。

ユミコさんはベネズエラの経済・社会状況に大変苦労し、晩年はドイツに移住。
私はユミコさんとの再会かなわず、今年ドイツで亡くなりました。

いつか、ユミコさんが里帰りさせてくれた祖母の着物を身につけて街歩きをしてみたい。

それが日本なのか、スペインなのか、果ては中南米なのか。
そしてアヤ叔母様やユミコさんに想いを馳せながらスペイン語で手紙を書きたい。
そう思っています。

私は母に外見も性格も趣味もそっくり、とよく言われます。
でも、もしかしたら父方の祖母の家系の血が濃いのかもしれません。

私も流れに身を任せて生きているうちに、今はスペインに拠点を移しています。

実家で見つけたスペイン語の手紙。
それまで知らなかった自分とスペイン語圏の国々との繋がり。

スペイン語を勉強し始めたのも、今バルセロナに住んでるのも、自分が選んだようで、もしかしたら私が生まれる前から何かの縁があったのかもしれません。

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